情熱の使い方

理想と現実の最適バランスを狙う究極のマーケティング

歩みを止めたら最後

何のために自分の能力を高め続けていくのか?

昔から結構こういったことを考えることが多かったんですが、皆さんは日々どういった理由で努力を続けてますか?

これには人それぞれ色々な答えがあるだろうけど、俺が『やっぱりこれだな』と感じる目的は、

自分のこだわりや信念を守り続けるため。 

人にはそれぞれ自分なりに作り上げてきた信念や哲学があるでしょ?

自分の場合、子供の頃の僕はどんな人が好きか?と聞かれると、『自分の信念を持っている人』と言うふうに考えてました。

その理由は、多くの人が何のこだわりも無く、ただ‘‘楽な方に、ストレスのかからない方に’’日々を生きていることに『つまらん奴らだな』と、そんな印象持っていたと言うのが大きいのですが、

ここ10年で学んだのは、

信念をずっと守り続けるためには、非常に高い能力を備えていないと達成されないのだな。と言うことです。

例えば誰かが『自分の持っているお金はなるべく多くを人のために使いたい』と、そんな心がけ、信念を持っていたとします。

でも、もしこの人が毎月のご飯に困っていたとしたら、少しお金が入ってきたとしても、『これは来月のために取っておこうかな?』と、自分の財布の中身が減っていくのを恐れ、次第に人のために使えるお金は少なくなりますよね?たぶん、

こういった状況で、それでも変わらず‘‘他の誰かのためにお金を使える人’’がいたとしたら、それは『今はないけどどうせ何とかなるでしょ?』と、自分の力に信頼を持っている人くらいでしょう。

これはお金の使い方だけでなく、
お金の作りにも同じことが言えます。

例えば俺は『これは俺がやってます』と、堂々と周囲に誇れるような仕事以外は絶対に受けない。やらない。と言う強いこだわりがあるんですが、

もし自分に仕事を立ち上げる力やお客さんを呼ぶ力が無かったとしたら、、、

きっとどこかのタイミングで『あんまり気の向かない案件だけど今月は厳しそうだからやっておくか』と、徐々に自分のこだわりを妥協しなければならない様な、そんな機会も増えてしまうのではないか?

現在、『自分の信念にそむくような仕事はホームレスになってしねーぞ』と自信を持って言えるのは、ホームレスになる覚悟があると言うわけではなく、

様々なこだわりや縛りを備えながら生きていたとしても、自分には十分社会で戦っていく力が備わっている。という自信があるからです。

昔は良い人と評価される人や、信念のある人と言うのは、その人の性格次第で決まる。と考えてましたが、

大人になって気がついたのは、

良い人が良い人であり続けるためにはそれなりの能力が要求されるし、自分のこだわりを貫き続ける事もそれと同じである。

ということです。

自分は‘‘子供の頃から多くの信念を持っている’’という所が1つのアイデンティティーでしたが、『こだわりを守り続けるためには相応の能力が必要だぞ』ということが分かった以上、

常に余力を備えておくための努力をしなければ、いつでも1番大事にしていた‘‘自分らしさ’’というものを失う可能性があるわけです。

だからこそ、昔と比べたらずいぶん沢山の事ができるになったなぁと、自分を褒めたくなることも時にはあるわけですが、

足を止めたら最後だぞ。

と、そんな危機感を常に持ってます。

ピンチと言うものはこれからの人生まだまだ何度でも訪れるでしょう。でも冷や汗を垂らすような険しい道の中でも、

『俺はこのやり方でやっていけるはずだ』

と、常に自分らしい方法選択し続けていくために、もっともっと多くを日々学び続け、少しでも昨日の自分よりも自分の能力を上げて行く事に努めていく必要がある。 

人は、大人になればなるほど、自分の理想と言うものを徐々に外していくのだなと、最近はよく感じます。

子供の頃から社会に出て働くまでは、自分のこだわりや理想をどんどん育て確立させていきますが、社会に出て、働くようになると現実の厳しさにぶち当たると、、、

まぁこれくらいはいいか。

まぁ、これくらいはいいか、、、、

と、徐々に育てた理想や信念を捨てていき、気がつけば、

電車で隣に座っている見知らぬ人と、端から見れば何も変わらない人になっている。 

でももし彼等に、

今みたいに厳しい時代をも余裕で生き抜いていく力があったとしたなら、

若い時代に作り上げてきたその個性というものを捨てずに、今でもその人らしさを存分に発揮した生き方をしてるんじゃ無いでしょうか。

俺が『大人こそもっと多くを学ぶ必要がある』といつも考えてるのは、別にこの社会の中で富むためではなく、

自分らしさを失っていくこの社会の中で、

明らかな自分らしさを絶対に何が起きても失わねーぞ。

と思っているからです。